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第零章;漢王朝の乱れ
元々中国という国はいくつもの王朝から成り立っています。
そして、そのいくつものうちの一つに「漢(かん)王朝」というのがあります。
この漢王朝は首都を長安(ちょうあん)に置いた「前漢(ぜんかん)」と
首都を洛陽(らくよう)に置いた「後漢(ごかん)」の両方を合わせたものをいいます。
そして、三国志の舞台背景を語るにはこの「後漢」の乱れについて話す必要があります。
この乱れが始まったのは後漢の皇帝「桓帝(かんてい)」、「霊帝(れいてい)」の時です。
桓帝は「単超(ぜんちょう)」などの「宦官(かんがん)」という皇帝の身の回りの世話をする役職の者の言葉を信じて、
「清流派」(せいりゅうは)と呼ばれる学問などに優れている者達を弾圧しました。
この事件を「第一次党錮(とうこ)の禍(か)」といいます。
その後、桓帝が死んで霊帝がその跡を継ぎました。
そして、それを補佐したのが「大将軍(軍事を行う官僚のトップ)」の「竇武(とうぶ)」と
「太傅(たいふ)」という大将軍と同位だが名誉職に就いていた「陳蕃(ちんばん)」です。
しかし、この時宦官の「曹節(そうせつ)」が権力を持っており、竇武と陳蕃はこれを除こうとしました。
ですがこれは計画が漏れて二人は命を失い、宦官はますます栄えていってしまいます。
この事件を「第二次党錮の禍」といいます。

そして、これをきっかけにしたかのように様々な事件が発生しました。
建寧(けんねい)二年(169年)四月十五日に霊帝が玉座に上った時のことです。
御殿の片隅から狂風が吹き起こって、一匹の大青蛇(へび)が玉座の椅子にまたがったのです。
それを見た霊帝は驚いて倒れて、小姓が急いで助けて官僚達も逃げました。
しばらくして蛇は消えましたが、突然雷が鳴って大雨、そして雹(ひょう)まで降り始めたのです!
これによってたくさんの家々が壊れました。
建寧四年(171年)2月には洛陽で地震が起こり、その影響で高浪が発生し甚大な被害がありました。
光和(こうわ)元年(178年)にはめんどり(にわとりのめす)が雄になったという話まであります。
他にも黒色の気が玉座に出たり、五原の山が崖崩れを起こしたり不吉な事件がたくさん起こりました。
これを目にした議郎(ぎろう)という顧問官の「蔡ヨウ(さいよう)」が後に上奏して、
政治を良くする様に言いましたがそれを快く思わない曹節は蔡ヨウを罪におとしました。

この後宦官たちは悪政を行い、特に「張譲(ちょうじょう)」、曹節、「趙忠(ちょうちゅう)」、「蹇碩(けんせき)」
「侯覧(こうらん)」、「封ショ(ほうしょ)」、「段珪(だんけい)」、「程曠(ていこう)」、「夏ツ(かうん)」
「郭勝(かくしょう)」は「十常侍」と呼ばれました。
特に張譲は霊帝に「阿父(あふ)」という父上という意味で呼ばれていました。
そして、英雄達が現れるまで十常侍は悪政を行っていきます。
もちろん、人民の生活は良くならず各地で盗賊たちが出没し始めたのでした。


第一章:黄巾の乱へ